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2011.08.27

「フクシマ」論を読んで

今回は書籍の紹介です。

51f3ohibxl__sl500_aa300__2 「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか

僕のtwitterのタイムラインでは好評価を獲得していた本。街の本屋さんにも平積みされていたので、もうお読みになった方もいらっしゃるでしょう。

著者の関沼氏は福島県出身で東大の社会学の博士課程に在籍中。本書は修士論文がベースになっているそうです。正直に言えば構成がいまいちでところどころ読みにくいですし、冗長な部分もあるのですが、それを補って余りある興味深い視点を提供してくれています。

本書のテーマは「原子力行政と日本の戦後成長との関係性についての考察」(p25)とあります。詳細は読んでいただくとして、この一節が本書の問題意識をよく表しているでしょう。

「原子力との始めての出会いが私に与えた印象は今でも全く変わっていない。私たちは原子力を抱えるムラを『国土開発政策のもとで無理やり土地を取り上げられ危険なものを押し付けられて可哀相』と、あるいは『国の成長のため、地域の発展のためにし方ないんだ』と象徴化するだろう。しかし、実際にその地に行って感じたのは、そのような二項対立的な言説が捉えきれない、ある種の宗教的とも言っていいような『幸福』なあり様だった。村役場の前からPR施設までの移動に使ったタクシー運転手は言った。

『つぶれそうなタクシー会社一つだけだったのが四つになってね。原燃さんが来てくれるまでは、一年の半分以上出稼ぎにでなければならなかった。危ないところでススだらけになりながら、家族と一緒に過ごせる日だけを楽しみにして汗水たらして働いて。今は一年中家族と一緒にいられる。子や孫が残って暮らせる。そういうもんですよ』 (p382)」

中央の政治家や電力会社、かつて「福島のチベット」とすら呼ばれた貧しいムラ、私欲あるいは愛郷に動かされる地方の政治家、それぞれのアクターが「欲望」のもとに能動的に行動して現在の均衡が実現したというのが本書の分析です。

では現在ややもすると過剰に騒がれている原発の安全性については住民はどう考えているのでしょうか?住民へのインタビューが納得性の高い実態を描き出します。

「80年代から、福島県の原子力ムラにおいて、学校教育のなかで『原発』を推進や反対、自治との関係のなかで取り扱うことはタブー視されていた…福島県の原子力ムラでは住民の3~4人に1人が原発関連の職種についている。それだけでなく、原発に出入りする弁当屋、保険代理店、近隣の飲食店なども含めれば、より多くの住民が原発とともに生活をしている状況にあると言える。その結果、原子力ムラの住民の多くが原発を容易には否定できない状況にあることは確かだ。(p104)

『東京の人は普段は何にも関心がないのに、なんかあるとすぐ危ない危ないって大騒ぎするんだから。一番落ち着いているのは地元の私たちですから。ほっといてくださいって思ってます。』(p106)

『反対派なんてもうほとんどいないんでないの。あそこの小屋で反対だっていう看板かけてる人?あー、まあ変わり者だな。別に問題になったりとかはないよ。』(p107)」

本書ではもちろん原子力ムラの”強力な”経済効果についても触れられています。

「2000年代の財政力指数上位30をみると、常に3分の1が発電所の立地地域であり、他は空港、自動車産業、観光産業の立地であることが分かる。ここから言えば、原子力ほど魅力的な地域の経済振興策の選択肢は日本において他にないということだ。… これまでも先行する研究のなかで指摘されて来た『交付金』や地元雇用とその波及効果によって成り立つ原子力ムラの経済構造であるが、その経済的秩序を再検討すると、それがもはや変えようとするにも、変える方法を容易には想像できないものになってしまっていることが明らかになってくる。原子力ムラが自ら原子力ムラであり続ける志向を捨てることは極めて困難な状況にある。(p139ー140)」

つまり、

「高度経済成長を通じて原子力ムラとして変貌したムラは、もはやかつてのムラに戻るわけにもいかず、かといって他の地域振興策もないなかで、原子力への信心を持ち続ける他ない。(P290)」

「原子力ムラの住民は原子力を持つということで苦しんでいるのは事実だ。しかし、それは貧困あるいは都市と比較しての『欠如』というより大きくな苦しみから逃れるためのものに他ならない(p323) 」

ということになります。

長くなりましたが、最後に「排除・固定化と隠蔽のメカニズム」(p350)についてふれます。これは、ある社会的問題があったとしても自分と他者と区別することによってその問題を自らの意識から隠蔽してしまう行動をとりあげています。

例えば脱原発を唱える人たちは主に東電、あるいは政治家に向かってそう主張するでしょう。しかし、一方で福島の原子力ムラの住人に、「あなたたちの仕事はもうなくなります。元の貧しいムラに戻って、冬は出稼ぎしてください」といえるでしょうか?東電や政治家という媒介を通すことによって、(恐らく)脱原発の提唱者の意識からは原子力ムラの人々が排除され、隠蔽されているのです。

私もある特定の社会問題に関心があるとしても、通常は所詮メディアや書籍などの二次情報にしかふれてないので偉そうなことは言えないのですが、筆者のいうところの「問題の当事者を他者として無意識に排除する姿勢」をなるべく避ける様に心がけたいところです。

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